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最近、死刑制度について考えさせられる機会が何度かあった。その一つが山口県光市で起きた母子殺害事件である。犯行当時18歳の少年は高裁まで無期懲役の判決を受けていたが、最高裁で差し戻しを言い渡された。未成年ながら、婦女暴行目的で悪質なのと逮捕後の言動などから矯正の見込み無しということらしい。高裁に戻れば死刑判決の可能性が高いという。 この裁判の過程で、被害者の遺族の男性がしばしばマスコミに登場し、死刑判決を訴えた。懲役には被告に対する制裁と社会復帰への矯正という二つの側面がある。日本に終身刑が無いため、性癖が治らない被告を社会に再び出さないためには死刑にするしかない、というのが理屈だと思う。もちろん遺族として制裁的な思いがあると思うが、それは仕方あるまい。 しかし、死刑制度は運用の仕方を間違うと、この本のような悲劇を生む。 これは小説ではなく、報道ドキュメントである。『免田事件』は1983年に死刑囚再審で無罪となった初めての刑事事件だ。警察の強引な取り調べと自白強要偏重の捜査がこのような「無実の死刑囚」を生んだのだ。 戦後間もなくの警察といえば、離婚歴や借金のある者、近所の評判が悪かったり安定な職業に就いていない者を片っ端から捕まえ、アリバイがはっきりしなければ、監禁して自白を迫った。殺人事件のニュースを見るたびに「犯人はさっさと死刑にすればいい」とすぐ言うような人にとっても、決して他人事ではないはずだ。かく言う私も今だったら危ないかもしれない。 怖ろしいことだが、『免田事件』以前にもこのような事件はあったのではないか?だとしたら、無実なのに死刑執行された者もいたはずだ。 人間、ましてや司法は間違いを起こすものだ。凶悪犯には死刑より終身刑を適用すれば良い。恩赦も同情もいらず、一生塀の中に押し込んでおけば良いのだ。 国家が正義の名の下に殺人をしてはいけない。 死刑執行の承認を与える法務大臣は自分で死刑に立会い、絞首台の執行ボタンを押す覚悟があるのか、一度聞いてみたいものだ。 ------------------------------------------------------------------------------ [あらすじ] 1949年 1月、23歳の青年だった免田栄は突如踏み込んできた警察に連行された。容疑は強盗殺人罪。免田は熊本県人吉市で前年12月に祈祷師一家が4人殺傷された事件の容疑者になっていた。生き残った娘の目撃証言から免田が浮かんだわけだが、けがと恐怖下ではたして犯人を見ていたのか後に疑問が呈された。 免田が人吉市警に到着してからは「寝せない、食事させない、容疑を認めなければ殴る蹴る」の繰り返しで錯乱の中、虚偽の自白調書が作成された。特に「早く罪を認めないと、死刑になるぞ」というのが殺し文句らしい。 しかし警察の捜査は杜撰で、免田が使ったとされる凶器のナタはいつの間にか証拠保管庫から消失していたほどだった。 それにも関わらず、この調書を最終的に覆すのに34年間かかったのである。 当初冷ややかだったマスコミも、免田を犯人扱いしたという後ろめたさからか、冤罪事件の追及に手を貸した。地元紙も反省して、後にこの本を出版した。まったく調子の良いものだが、この間に時代や人権意識が変わったのも確かだろう。 1983年 7月、熊本地裁八代支部は免田にようやく無罪を言い渡した。しかし、今に至るまで真犯人は分かっていない。 免田は窓越しに70人ほどの死刑囚を死刑台に見送ったと言う。執行の日には、誰が呼ばれるのか分からず職員の靴音が近づいて来るので、拘置所内は静まり返り体が震えるという。これは人が人に与える最大級の精神的拷問であろう。 『免田事件』以降、再審無罪となった事例が相次いだ。その一人が宮城県松山町で起きた通称『松山事件』である。事件の「犯人」にされた斉藤幸夫氏の再審運動を仙台で友人がしていたため、同被告の御母堂と話す機会があったが、小柄な老人が30年以上も街頭に立ち息子の無実を訴え続けたことに私は驚嘆した。 冤罪 免田事件
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