お奨めミステリー小説 (271) 『ペトロス伯父とゴールドバッハの予想』 A.ドキアディス

あらゆる科学者の中で数学者は特異なポジションにいる。数学は最も純粋な学問とみられ、、早熟な天才が若いときに為した業績のみが後世に伝えられている。リーマン39歳、アーベル27歳、ガロアは20歳で没しながら、ζ(ゼータ)関数、アーベル積分、ガロア群といった偉大な功績は現在でもテキストとして扱われる。あらゆる学問分野を通じ、19世紀前半の書物が未だに大学の講義で使われていることは無いだろう。

その選ばれた天才たちでが数百年かかっても解けない“世紀の難問”と呼ばれるものがある。350年の苦闘の末 1993年にワイルズによって解決をみた“フェルマーの最終定理”、ごく最近解決された“ポアンカレ予想”と並んで代表的なのが“ゴールドバッハの予想”と呼ばれるものだ。「2より大きい全ての偶数は二つの素数の和で表せる」という実にシンプルなもので、思わず証明に飛びつきたくなる。しかし予想が生まれてから250年たっても証明されていないことから分かるように、難問中の難問なのだ。

本書に登場するギリシャ人数学者ペトロスは架空の人物だろうが、多くの天才数学者の中に埋もれていった“並の学者”の代表ともいえる。そんな平凡な彼でさえ数学の話になると常人を越えた集中ぶりと才能を見せる。まさに純粋数学は凡人には近づきがたい選ばれし者たちの世界なのだ。

作中にはハーディ、ラマヌジャン、チューリング、ゲーデルら歴史的な業績を残した大数学者たちも登場するが、作者によると「ろくな死に方ができなかった」となる。“ポアンカレ予想”を解決したロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンはかつては快活な青年だったが、フィールズ賞を辞退し姿を消すなど奇行が目立ち、なにかに取り憑かれてしまったようだ。作者は「ハーディやラマヌジャンらと同時代の数学者リトルウッドは幸福な晩年を送ったが、数学者としては小さかった」とだめ押しをしている。

それでは、「我々は凡人で幸せだった」と単純にいえるのだろうか?

いや、どんな惨めな晩年を送っても、それどころか結果的に歴史に名を刻めなくても、それは意味のない人生ではないだろう。つまりペトロス伯父という存在をどう考えるかという命題こそが作者が突きつけたかったものなのだ。
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[あらすじ]

伯父のペトロスは私の父親を含めた二人の弟たちに養われるダメな伯父だった。父たちは「あいつは落ちこぼれだ」と言って少年時代の私を近づけないようにしていたが、私からみると商売人で下品な父たちよりペトロス伯父の方がはるかに教養がある物静かな紳士で好ましかった。

ペトロス伯父はチェスになると無敵の腕前を示し、本気で修行したら国際マスターにもなれるほどだった。ペトロス伯父に神秘的な魅力を感じていた私は、偶然から伯父がかつてミュンヘン大学の数学科教授であったことを知る。ギリシャ人としては相当な知的エリートでありながら、なぜペトロス伯父は隠遁生活を送り弟たちに軽蔑されているのか?

高校時代を優秀な成績で通した私は数学者になりたいとペトロス伯父に相談する。それを聞いた伯父は動揺し、私を止めようとする。挙げ句の果て、私に3ヶ月以内で解けたら数学科行きを認めると言って整数論の問題を出してくる。無理矢理この件を約束された私は一見して易しそうなその問題に戸惑いながらも立ち向かおうとするが、やがてこれがとんでもない難題だと気づくのだった。


ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」 (ハヤカワ・ノヴェルズ)
早川書房
アポストロス ドキアディス


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