ノーベル賞はヨーロッパの文化?

2008年度のノーベル賞、物理学部門は三人の日本人が授賞した。

小林-益川理論の二人は早くから候補に挙げられていたので納得したが、三人目は一世代上の南部先生だった。失礼ながら御存命だったのにも驚いた。
87歳で授賞とはいろいろな意味で幸運といって良いだろう。
時代を考えると、南部先生が三人の中で最も天才的な印象を受ける。

化学賞授賞、GFPの下村先生は少し意外だった。
こちらもかなりのお年だし、もっと早く獲っていてもおかしくはない。

しかし最も盛り上がったのは医学・生理学部門だった。
訳あって、今年はこの部門に注目していたのだ。

当日、授賞中継を観ていた人たちからは一斉に「ギャロが入っていない」との声が挙がった。

HIVの「発見者論争」でギャロの仇敵になったモンタニエ(Luc Montagnier) とその共同研究者、さらにパピロマウィルスのズール=ハウゼン(Harald zur Hausen)に賞が与えられたのだ。

裁判では両者痛み分けになっているが、実際のところエイズ治療薬の発売を遅らせないための政治的決着であったといわれる。口に出さないものの「ギャロは怪しい」という印象は残った。

ギャロの評判はこれ以外にも何かと良くなく、嫌いと言う人が多い。
実際にどういう人物かは知らないが、悪評の裏には何か訳があるはずだ。

ノーベル賞は設立の経緯もあって、「人類に貢献した人」に与えられる。
発見論争が長引き医療の進歩が遅れたら多くの命が失われ、それとは逆の結果になる。
その原因を作ったのがギャロと判断したのだろう。

今回の結果はギャロの「見えざる悪状」をノーベル賞委員会が断罪したとも言える。

すなわち、裁判で負けなければ、悪いことはしていないと胸を張れるのか?
おそらくアメリカ人はそうなのだろう。

しかしヨーロッパ人はこうした風潮を内心、苦々しく思っていたのではないか。

このような価値観はスポーツや芸術とも少し似ている。

参加することやフェアプレーに意義があるという元祖オリンピック委員会(元々ヨーロッパ貴族中心)に対し、アメリカ人は記録とショーマンシップを求める。音楽コンクールにおいて芸術性や将来性重視のヨーロッパの審査員に対し、即戦力のテクニックを求めるアメリカのオーケストラ。カンヌ映画祭にハリウッド映画は縁がなく、芸術性や内面重視の作家映画が賞を取る。

ノーベル賞は国連などと違い民間の賞だ。こうしたヨーロッパ人の「アメリカ嫌い」が前面に出てきて日ごろの鬱憤晴らしをする場所になってもおかしくはない。ある意味「政治的」なのだ。

平和賞では政治性がさらに前面に出てきて物議を醸すのは周知の通りだ。

それを考えると、今回授賞した日本の研究者たちが胡散臭さのない研究者タイプの人たちだったのは誇ってよい。特に益川先生の「ノーベル賞、ノーベル賞と言い過ぎるのは、はしたない」という言葉には共感。まあ、勝者の余裕という気もするが。

私の知人のスウェーデン人は日本人の内面は北欧やゲルマンの質実な気質に似ていると好意的に語っていた。

案の定、日本でも「ギャロが選ばれなくてOK」という雰囲気が濃厚だ。

政治的にはアメリカべったりな日本人がアメリカ人の一国主義的な自己中心主義にうんざりしているのは面白い。そういえば、冥王星が国際天文学連合によって惑星から削除された際も、ひたすら反対論をぶつアメリカに対し(冥王星発見者はアメリカ人)、日本人科学者は冷淡だった。



"ノーベル賞はヨーロッパの文化?" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント