お奨めミステリー小説 (230) 『誘拐』 本田靖春

予備知識なしで読み始めたため重厚な社会派小説だと思っていたら、実は違っていた。
これは後に「吉展ちゃん事件」として知られる有名な誘拐事件の詳細な記録なのだ。

事件の発生から犯人との折衝、身代金受け渡し、一転迷宮入りと思われてからの再捜査と犯人逮捕、そして・・・と息もつかせぬ迫力で綴られる本書は講談社出版文化賞などに輝きドキュメンタリー文学の金字塔とも呼ばれた。

名前だけは有名な「吉展ちゃん事件」だが、いかなるものであったか?
実はその全容を知るものは数少ない。

当時、1960年代は現在のように地方で起こった殺人事件がすぐに全国ネットで流れる時代ではなかった。そのため今のように凶悪犯罪多発の怖い世の中というイメージはなかったかも知れないが、実は現在より殺人事件の数は遥かに多かった。

この事件が全国区になった理由の一つは東京のど真ん中で起こったことだろう。誘拐されたのは上野駅近くに現在もある入谷南公園、身代金受け渡しも近所、犯人の勤務地は上野アメ横という「東京ローカル」な事件なのだ。

当時、子供を返すよう犯人に呼びかけてザ・ピーナッツが歌を歌い、東京都や千葉県の知事がメッセージを送った。

しかし結果的にそれらは無駄だった。被害者の吉展は誘拐直後に殺されていたのだ。

本事件は「営利誘拐で身代金要求前に殺した場合は死刑」という前例を生んだケースともいえる。私が高校生のとき愛知県で起きた女子大生誘拐殺人事件のときも、この事件が前例として適用され、判決後間もなく執行された。

とはいえ、冷静な目で見れば犯人にも同情の余地があり、作者の目はそこに注がれている。元々は知的で順調な人生を送れたかもしれない少年が病気の後遺症で足が不自由になり、学校へ通えなくなる。東北の田舎のことゆえ、地域の人々の目も厳しい。村にいたたまれなくなった男は東京に出てきて底辺の仕事に就く。

やがて八方ふさがりになった男は・・・と東京オリンピックを前にして高度成長期日本の暗部の物語だ。

犯人といい、彼を支える女性といい、凄まじい生涯をおくってきた昭和の語り部のような人物たちだ。

この本がテレビドラマ化されたとき、制作者に向かって遺族は初めて「犯人も気の毒な人だった」と語ったという。
ある意味、報道人冥利に尽きるのではないか?

しかし、その言葉を最も聞かせたかった犯人は死刑執行後で、すでにいない。

俗に「営利誘拐は絶対に成功しない犯罪」と言われる。現金の受け渡しで被害者側と接触するため、逮捕の機会を与えてしまうからだ。ところが、この事件ではまんまと金を取られてしまう。犯人の作戦もうまかったが、警察の対応にも問題があった。当時はだいぶ警察が叩かれたようだが、人権意識の高まりで電電公社(現NTT)による逆探知や録音の許可がおりなかった。別件逮捕による強引な取調べも出来ず、現在のような科学捜査もない。

結局、最後に難局を打開したのは刑事の丁寧な聞き込みと丹念なアリバイ崩しだった。

しかし、この本の真髄は犯人逮捕に至るまでの関係者の動向や刑事たちの活躍だけではない。

実は逮捕され死刑判決を受けた後の犯人の心の動きが印象的なのだ。その改悛ぶりは極端で、自らは死刑になるべきと繰り返し主張する。宗教には馴染めず、拘置所で習いだした短歌に安息を見出す。やがて短歌の会に匿名で参加し歌集にも載せた。処刑前日にも「心の準備は出来た」と短歌仲間に丁寧な礼の手紙を書くのだ。

こうした完全に改心した(と思われる)人間をそれでも処刑台に送るのは文明人としてふさわしい行動なのだろうか?最近マスコミの登場し死刑を訴える「遺族の思い」も結構だが、そうした死刑は「法を用いた敵討ち」ではないのか?「遺族の無念を晴らすための罰則」を叫ぶなら、身内のない独居老人が殺されたら犯人の罪は軽くなるのか?

一方で、オウムのサリン事件で何人もの命を奪いながら涙ながらに捜査に協力し「情状の余地あり」と死刑を逃れた医師がいた。あれだけ殺しながら裁判で改悛の情が認められるなど、裁判官の心象に過ぎないのではないか?そもそも、その「改悛の情」は見せかけかもしれない。

結局、人は起こした行為の分だけ公平に裁かれるべきだろう。
その後、いくら反省しようが関係ない。

また、本当に反省した人間を生かしておくのも大きな罰に違いない。

やはり「人一人殺して死刑」は重すぎる。

犯人を自白に追い込んだ名刑事平塚八兵衛は長い取調べの中で犯人にも同情の余地があることを思い知らされる。そして死刑執行後に犯人の墓参りをした際に叫ぶ。
「落としたのはおれだけど、裁いたのはおれじゃない」

あまりに重い言葉だ。
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[あらすじ]

東京オリンピックを翌年に控えて高度成長に沸く昭和38年(1963年)、母親が目を離した隙に東京都台東区の入谷南公園から一人の男の子が消えた。その子供、村越吉展に男が話しかけているのが目撃された。両親が警察に届けると事故に遭ったのではないかと言われるが、誘拐ではないかと心配する。

やがて誘拐犯人から連絡が入った。犯人は東北訛りの男で50万円の身代金を要求する。接触の際、逮捕すればいいからと警察はニセの札束を用意させるが、家族は本物を用意する。警察の対応は後手に回り、結局札束は取られ、吉展も戻ってこなかった。警察も家族も敗北感に打ちひしがれる。

しかし吉展の両親が用意した録音機に電話での会話が残されていた。
警察はこの声を公開して逮捕協力を願う。

小原保は福島県の石川という町で生まれ育った。保自身はまじめでおとなしい子供だったが、家族には代々問題のある人間が多かった。小さな集落で近親結婚を繰り返したせいではないかと、村の者に後ろ指を差されており、一家は肩身が狭い。しかも保は子供の頃、怪我をした箇所から細菌感染し足が不自由になった。

ただでさえ仕事のない村に居にくくなり、東京に出てきた保は苦労の末、上野で時計の修理工になる。

東京オリンピックを翌年に控えた1963年、保は生活にも事欠く有様だった。兄弟たちも東京に出てきたが、日々の生活に終われ、親しく付き合ったり助け合ったりする余裕が無い。保自身も借金まみれで取り立てに追われ、女の家に転がり込んでいる。

そんな中、吉展誘拐犯の声が公開されると、保の兄弟たちに動揺が走った。
そして、犯人の声と話し方は保にそっくりではないか、とただちに警察に伝えられた。

しかし、当の保はむしろ捜査に協力的だった。

それどころか、自分にはアリバイがあると口にして捜査員を混乱させる。


誘拐 (ちくま文庫)
筑摩書房
本田 靖春


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